用語集


技術  一定の目的を遂行するための最適な方法、手段、行動の仕方を指す。また、一般的に技法、技芸、一連の処理方式を意味するテクニックtechniqueに対し、テクノロジーtechnolgyという場合は、特に近代以後における、科学を応用して対象に働きかけんんげんの生活に役立てようとする行動またはその体系を意味している。

技能
 技能は、一般的に「技芸を行ううでまえ、技倆」(広辞苑)とされている。「技(わざ)」「芸(げい)」という言葉のなかには、「技を身につけた人」、「芸にたけた人」という響きがある。このことは、技術が客観化されたものに対し、「技能は主体化されたもの」といわれることに対比している。


知識
 一般に人間の認識の所産を指して知識と呼ぶ。認識と知識は、「知る」という活動を構成する要素として、前者は知る作用を、また後者は知ることの結果を意味している。両者は連続した物であり、それまでの知識を手がかりに認識がなされ、それがまた新たな認識を形成する。
(教育目標における意味:理解との対比)「気づく」だけでも対象を知ったことになり、その中身、内容、構造、正確、意味などまで知らなくても「知っている」「知った」いったときに使う。


到達目標
 子どもたちに獲得されなければならない実体的に明示した目標を指す。この到達目標の習得は、国民的教養の基礎として、そべての子どもたちに保障されなくてはならないものとされる。
「正比例関数がわかる」など
 方向目標との関係で用いられる。
 最初、板倉聖宣(1965)に使用した。


方向目標
 最低限これだけという目標をもたず、ただ方向を示す方法で設定される目標。
 「自然の巧みに関心をもつ」「みずから解決する態度を養う」など


マスタりー
 ブルーム。到達目標のもと。


認識 cognition

 対象について新なることを知ること。単なる思考ではない。思考は、対象がなくても、論理学の規則(特に矛盾律)に背かない限り、可能である。ところが認識とは「対象」に関してであり、対象は元来偶然的に与えられているにすぎない。これについて新なることを知ることが認識であり、その体系が学であって、真偽は不明だがとにかく知ってはいるという心理学的事実ではない。

近代自然科学
 認識問題はギリシャ時代にも(たとえば対話において)、中世にも(たとえば神に関して)あったが、まだ思考の規則(の学)としての論理(学)を基礎にしていた。「認識が」哲学的に重要問題化したのは当然、近代自然科学の勃興以来である。
 デカルトDescartes,R.は論理学的、数学的認識の確実性を「内在観念の直感」ということで基礎づけようとした。人間の心の中には創造者である神のサイン(=内在観念)が残っている。サインはいつ、どこでしても同じであるはずであり、これを人は心で直々にみる(直観)のだから、だれにでも明晰に、しかも日光、照明、各人の視力の差などにだれにでも同じに見えるはずである。
つまり内在観念の直観は明晰判明で確実である。さらにデカルトはこれでガリレイの学を学として基礎づけようとした。
 これに反してロックLocke,J.は、心に観念が内在することはなく、心は白紙のようなもので(白紙説、タブラ・ラサ説)、観念は心の外から経験をとおして入って来るのだと主張した。続いてバークリーBerkeley,G.は「存在する」とは「近くされること」だと主張し、ヒュームHume,D.は、ものとは書生質の集合、心とは処置核の束にすぎないと説いた。これらはイギリス経験論と呼ばれるが、かれらが初めて認識論を展開し、ついにヒュームに至って物心両面において「実体」性を否定したことは、大きいことであった。しかしこの「経験」論では論理学、数学の確実性を基礎づけることができず、懐疑論(ヒューム)に至らざるをえない。

主観−客観
 ヒュームの経験尊重、実体否定を「警告」と受け止めたカントKant,I.は心(実体)と物(実体)という構図ではなく、主観−客観という構図で考えた。かれは、人が何かを知るとき、<私が>それを知るのだという形でいくもすでに前提されている意識の働きの事実を主観(自我)と呼ぶ、主観において完成(受容能力、これのア・プリオーリな形式が空間と時間)、悟性(判断能力、これのア・プリオーリな形式がカテゴリー)、理性(推理能力)が働き合い、そこで客観(対象)についての知性との一致」つまり心における物の十全な模写とみなされていたのだが、官途は主観の能動的自発性を強調し、認識において主観が対象を構成するのだ、つまり認識が対象に従うのでなく<対象が認識に従う>のだ(構成説)とした。これが一般にコペルニクス的転回といわれている。しかし、そうだとすると、物は主観の形式に沿ってしか現象してこない、つまり<物事態>は認識できないということになる(不可知説)。このようにして官途は数学と自然科学(ニュートン)とを基礎づけ、さらに形而上学の問題へと進む。
 カント以後、哲学は再び形而上学的になりすぎ、これへの反発から「カントに帰れ」の声があがり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて認識論(マールブルク学派、ドイツ西南学派)が哲学会を席巻した。


認知 cognition

 心理学の中で、認知(cognition)という言葉は、歴史的にさまざまな意味で使われてきた。たとえば、感覚、知覚よりさらに高次の過程として、対象が何であるかがわかることを認知という場合がある。また、学習の理論では、行動のレベルでの変容ではなく、知識や理解などの内的過程の変化に重点を置く考え方があり、これらは一般的に「認知論」と呼ばれる。もっとも広義には、「知情意」という人間の精神的機能のうち、「知」にかかわる部分を認知ということがある。
 そこで、広くは、知覚、記憶、学習、言語理解、推論、問題解決など、人間の知的な作用を総称して認知というが、とりわけ高次の機能を指す場合があると言うことになろう。特に、「認知的理論」とか「認知的説明」などと言うときには、「単純なメカニズムではなく、高次の知的機能がかかわっている」という意味合いを込めて使われる。また、心理学で「認知的研究」と言うときには、単に、ある実験条件でこのような結果が得られたということを示すだけではなく、「内的過程のモデル化を含んだ」ということを表している。


理解
 一般に、「言葉や状況、考え方や行動など物事の意味や意義、価値、論理を悟り知ること」と定義されている。
 「理解」は、「承認」や「肯定」という価値付けを伴わない。
(教育目標における意味:知識との対比)単なる表面的・外面的な物の知り方ではなく、たとえば「論理構造」とか「関係」とか「意味」とか「価値」とかをわかっている。